浜松市中区・南区ピアノ・マリンバ教室 講師紹介です。

静岡浜松市で生まれる

父は、自営業を営み

母は、専業主婦だった。

22歳で出来ちゃった婚。

若い母ながら子育てはしっかりしており、

3人の娘を産んだ。

いい意味で放任、子供達の自立を願ってのことだった

しっかり者の母の元、仲良く過ごす

 

浜松市私立 昭和幼稚園に通う。

音楽の都だけあって、音楽教育に熱心だった。

お遊戯会ではなく音楽会というのがあり、

楽器も本物があり

マリンバ、大太鼓、シンバル、エレクトーン、トーンチャイム。

など、充実した設備の幼稚園だった。

鼓笛も盛んで、運動会、音楽会の時にも出演。

私はティンプトンという太鼓が二つついた楽器をすることになり、

これで、鼓笛の全国フェスティバルで東京に遠征したこともあった。

 

小学時代

2年生ときに同じ浜松市内の芳川小学校に転校する。

校歌が2声部になっていたり

小学校なのに吹奏楽部があったりと

ピアノを習わなくても十分音楽に浸れた。

4年生の時に吹奏楽部に入部。

フルートを希望し、1年間頑張る。

ここで楽譜の読み方もマスター。

ところが、人数が多かったフルート。

まさかのフルート落選

 

打楽器に変わる

母も吹奏楽部出身で、

『打楽器もいいよ〜』

という一言で打楽器に決めた。

ここで幼稚園時代の鼓笛体験が活かされる。

みるみる上達していく。

 

ピアノレッスン

元々家にアプライトピアノがあった

母の持ち物であった。

楽譜などもあった。

独学で練習。

ヘ音記号の読み方は母に習った。

そうこうするうちにだんだんと、弾けるようになり

簡単な両手の曲は弾けていた。

 

本人の望み

母の主義で、習い事は本人がしたいと望まないとさせてもらえなかった。

ここにきて初めて自分の意思でピアノを習いたいと話し、

近くのピアノの先生にレッスンに通うこととなる。

5年生の時。

ピアノの先生は優しい先生だった。

6年生になってブルクミュラーに入るまで上達した。

 

学級委員事件

6年生の一学期の学級委員の選出で、おとなしかった自分がまさかの選出される。

本来の正義感が出てきて、クラスのみんなに注意したりしたことが反感を買い、

まさかのいじめにあう。

・無視

・仲間はずれ

我慢強いタイプだったので、いじめにあっても我慢していた。

誰も相談できなかったのは辛かった。

母の前で泣けたら良かったが、それもしなかったので

母は様子が変だな?

と思ったくらいで、私がまさかいじめにあっているとは思わなかったようである。

 

友達の存在

この危機から私を救ってくれたのが友達だった。

いじめの首謀者がいて、もうし合わせて私のことを無視しようとしていたらしい。

でもその子はそれが嫌で自分から、

『ごめんね。今まで無視してて。』

といってきてくれた。

すると周りの子も、みんなイヤイヤやっていたらしく、徐々に対応が変わってきて

学級委員長の任期が終わる頃には、また仲の良い友達がいっぱいできた。

 

ジュニアオーケストラ浜松

小学校が吹奏楽が強い学校だったが進学先の中学はそれほどでもなかった。

友達に誘われて

ジュニアオーケストラ浜松という市が運営するオーケストラの

入部オーディション受けることになる。

 

オーディションに合格

打楽器2枠の募集に3人希望者がいて、見事合格した。

その部は高校生まで入れるので、ハイレベルな演奏に機会がありメキメキ上達した。

練習はたったの週1回。

でも、半年に一回のコンサートや地方遠征。

新潟に行ったりも。

 

9−11テロ

アメリカ遠征も決まっており、パスポートを取ったりとみんなで盛り上がっていた。

残念ながらアメリカ同時多発テロ9−11のため

アメリカ遠征はなくなった。

 

音高を目指して

中学2年生の時に音高を目指すことになりジュニアオーケストラの先生にレッスンに通う

打楽器のレッスンを受けるはずが

その先生がマリンバ専門ということでいつの間にかマリンバのレッスンに変わっていた

マリンバにハマる。

静岡県立江之島高等学校 芸術科に合格する

 

音高時代

週1にマリンバのレッスン、ピアノの副科レッスン、個人のピアノのレッスン、ジュリアオーケストラ、さらに吹奏楽部にも入ったため

かなり忙しかった。

マリンバを買うと200万はする。

ありがたいことに学校で好きなだけ練習できた。

音楽漬けの毎日だったが楽しかった。

 

打楽器はオタクの集まり??

高校の吹奏楽部の打楽器パートは7〜8人

打楽器をする人は、没頭型が多く

ある先輩はシンバルで1000発打ちという目標を掲げ

教室に閉じこもって練習するなどしていた。

他のパートからリスペクトさせるほどだった。

 

マリンバ界のカリスマ 

安倍圭子先生に憧れる

高2の時に阿部圭子先生の曲に出会う。

そこから先生のことを色々調べあげ、憧れを強くする

高3の時にやっと実物を見ることができて感動。

安倍圭子先生に習いたい!

そんな思いが膨らんでいった。

 

カリスマを追っかけて

受験校を決める際に、

安倍圭子先生のいる桐朋学園大学音楽学部にいきたい!

と強く思う。

受験勉強は

聴音と英語に苦戦。

でも、何度か憧れの安倍圭子先生のレッスンにも通うことができた。

東京の一等地にある先生のご自宅。

地下室がレッスン室

グランドピアノ2台

マリンバも2台

先生のレッスンは温かみのあるレッスンで

一緒に弾いてくれたりと感動の連続だった。

絶対桐朋に受かるぞ!

猛練習した。

 

合格発表

ベストは尽くせた。

フルートで受験した友達とドキドキしながら合格発表。

打楽器の合格発表で自分の番号を探す。

31・・・

「ない!」

心の中でつぶやいた。

「落ちたんだ。」

携帯電話で母に電話する

「だめだった。」

母「え?あんた絶対番号あるから、もう一度見なさい。」

とびっくりすることを言われた。

 

名前がない!

疑心暗鬼にもう一度番号を見に行く。

そこでやっと、他の科のところを見ていたことに気づく

友達も「こっちじゃない?」

と見つけてくれた。

ここでやっと、

「ああ〜受かったんだ。これで安倍圭子のレッスンが受けられる!』

母にもう一度電話する

なんと合格発表時間を過ぎて、

安倍先生→地元の先生→母に

合格のお知らせが来ていたらしい。

友達と大はしゃぎで帰ってきた。

 

初めての寮生活

門限は厳しかったが、楽しかった。

人物観察も面白かった

・ピアノ科の子は一人の向きある子が多く

・歌科の子は、さっぱりした子が多く

・弦の子は、いい意味でプライドが高く

・管の子や打楽器の子は、仲間意識が高かかった。

 

遠距離恋愛

そうはいっても慣れない東京生活

長期休みに地元に帰るとホッとする。

実は、打楽器の1000発打ちの先輩と遠距離恋愛

ゆっくりとお付き合いを続けていた。

将来はこの先輩と暖かい家庭が気づけたらいいな?

と思ったことも。

穏やかで芯が強い

人格的にも尊敬できる人だった。

 

まさかの

そうこうするうちに人生で大きな出来事が起こる。

身体の異変の気づく

もしや?

帰省して母にすぐに相談する

母は特にとがめもせずに冷静に

「どうしたいの?」と聞いた。

私は正直に「堕ろすのも嫌!音楽辞めるのも嫌!」

と病院に母と行く

産婦人科の先生から「2ヶ月です。」

と告げられた時、

「これからどうしたらいいの?」

不安になった。

最大の決断

母は「あんたの人生なんだからしっかり考えなさい」

父は「そうか。」とそれ以上何も言わなかった

彼は「君のしたいように!」

私の中では、出産と音楽の勉強の二つの選択はない。

音楽の勉強はもう諦めよう・・・

と地元の先生である江藤先生に挨拶に行く

 

私「音楽の勉強は諦めて子供産みます」

江藤先生「子供がいても大学通えるから!やめちゃダメよ」

この先生の一言で私の人生が大きく動く

 

決めた!

彼は、将来私と結婚するから、今は子供を諦めてもいいんじゃない?と言われたが、私の中で、子供を諦める選択はなかった。

じゃ、音大は諦めたら?でも、今までとってもお世話になった先生にあそこまで言われて、辞めますとは言えなかった。

私は出産と音大2つの掛け持ちを決意する。

大学を1年間休学して、出産。

翌年、大学2年生からスタートする。3年間、静岡から東京に新幹線通学をした。

周りの人、家族、大学の同期、みんなが私をサポートしてくれて、無事大学を卒業できる。

 

子育て

1人目の子は、何にも手のかからない子でした。

自分のことをしっかり自分でしてくれて、とても助かりました。

私はそれに甘えてしまい、あまり構ってあげれませんでした。

なので、反抗期が5.6年生と早かったです。

この頃は部屋に1人で閉じこもり、何を考えているのか…

言っても聞いてるのか聞いてないのか…みたいな状況。

当時は反抗期だと分からず色々考えました。

 

2人目の子の誕生のちょっと前くらいから、母乳が良いと母乳に注目がおかれていました。

私も母乳で育てようと思いました。

が、私は母乳がそれほど出る方ではなかったので、とても大変で涙が出るほど、限界になっていました。

私はダメな母親なんだと思いました。

年子で下の子が生まれたので、いつも下の子が私の手の中にいたので、本人も小さいのに私に甘えられない、我慢する子でした。 これはいけないと思い、スキンシップをたくさんするようになりました。

今では少し甘えられるようになりました。

この子の夢が巨大すぎて、両親とも驚いていますが、彼が頑張れるようにサポートしたいと思うと共に、もし夢が叶えられなかったとしても、それに向けて頑張ったことは、彼の宝となると思ってます。

 

3人目の子はアレルギーがあることが分かり、食べ物にすごく気を使いました。

幼稚園に入る前までには、全部食べれる用にさせたいと思い、頑張りました。

なんでも食べれる子になり良かったと思います。

とてもら甘えん坊で、親離れ子離れができるようになるのか心配しています。

 

初めての生徒

幼稚園児、まだまだ幼い子に完璧な演奏をもとめ、完璧でないと花丸をあげない。

結果なかなか前に進むことができない。

自分は、幼い頃にピアノ経験がなくどこまで進めていいのか、どのくらいのペースで進めるのか、幼い子への教え方が全くわかっていなかった。

そこから、色々なセミナーに行き、成功している先生のノウハウを学んだ。

もっと進めていいんだ。 

認めることが大切なんだ。

幼い子へのアプローチの仕方などなど

 

ピアノ教室が評判に ある年を境に生徒さんがどんどん入ってくれるようになった。 

自分で言うのもなんだが、レッスンは優しいと思う。 

ずっと歌ってのレッスン。 

音楽表現を子供に考えさせることをレッスンで大事なポイントだと思っている。

そんなこともあり、 お姉ちゃんがピアノを習いだして、その妹もと言った感じで生徒さんが増えていっている 。

 

指導歴 9年 

 

セミナー 

・渡部由記子先生   魔法のピアノレッスン

・岳本恭治先生    脱力奏法を身につけるために!

・丸子あかね先生   一人で譜読みできますか?

           子どもが飽きない「リズム」のレッスン

・藤原亜津子先生   こうして生徒は上達した

            ~なぜ、バスティン・メソッドなのか~

・井上幸子先生    生徒が1000人集まる

            音楽教室の作り方

・今野万里先生    ピアノの先生が知っておきたい

            導入期の指づくり・音づくり・耳づくり

・伊藤佳美先生    アレクサンダー・テクニックを取り入れると

            もっと楽に、うまくピアノが弾ける

・堀江真理子先生   必ず上手に踏めるようになる

            ペダル奏法